カテゴリー: Uncategorized

  • 琉球ガラスと主体性

     かれこれ5年は使い続けている琉球ガラスのコップがある。妻との結婚前に行った沖縄で、「吹きガラス体験」として作ったものである。5年も使い続けると手に持たずとも重さや質感が頭の中に浮かぶくらい生活に馴染んでいるが、気に入ってはいない。緑と白で塗られた波とも見える模様が美しくかっこいいのだが、気に入ってはいない。

     というのも吹きガラス体験とは文字通り、赤色に熱を放つガラスをおじさんと一緒に持ち、少し息を吹き込んだのみ。それだけ。その後の加工も染色も何もしていない。

     旅行の思い出もすっかり薄れたころ、宅配便で自宅にコップが届いた。梱包材をあけたときの印象はいまでも覚えている。「こんなの作ったっけ」が最初の印象だ。同梱された妻のガラスは吹き込みが甘かったため、いびつな形となった。その形が妻の記憶にしっかりと残っていたようだ。だが、自身のガラスのコップはまったく見覚えが無い。それはそうだ。コップの制作過程においては自身はほとんど関わっていないため、自身が作ったという感覚(そもそも記憶すら)が無い。

     この感覚は大学の卒業旅行で行ったイタリアの海外のツアー旅行と似ている。約2週間でイタリアの各地を回ったのだが、決められた工程で決められた観光地をまわり、決められた食事を食べる(一般客が食べているものも注文できず、基本出される料理は決まっていた…格安ツアーの鉄板だと思うが)イタリアの観光地に行った記憶はあるが、思い出は無い。体験したはずだが、何も残っていない。

     このガラスのコップを見るたびに主体性の大切さを実感する。自身が制作する過程において感じる達成感や愛着、充実感は自身がどれだけ過程に「主体的」に関わったかに比例するのだ。過程に責任をもち、リスクを背負い、自ら判断することでしか物事の当事者にはなりえない。

     そんなことを琉球ガラスのコップが教えてくれる気がする。